分かってはいた。あの全てが『負の力』の創り出した幻だった事は。だが、今の自分にそれを破るほどの精神力が無かったのだ。あのままだったら、容易く『負の力』に呑まれていた。
だが、先程まで周りに在った奇怪な紅い闇が消え、自分の意識まで入り込んできていたようなあの「声」もふつりと消えてしまったという事は、やはり──そういう事なのだろう。
それに、目の前に居る者が青龍だという事ならば、自分と同じ紅の瞳のことも、自分がこの姿を「知っていた」事も頷ける。自分は、その存在がために生まれてきたのだから。──と、ふと『楓』の思考が、止まる。
「その存在がために生まれてきた」、つまり──
(そう、だ。俺は……)
痛々しいほどに無感情な『楓』の声が、無造作に沈黙を断ち切る。
突然、『楓』は声を張り上げて青龍を睨み付け、右腕を真横に振り上げた。
半ば狂乱したかのような『楓』の叫びは、幼き頃から少しずつ積もってきた──そして目を背けたかった──感情を、想いを一気にぶちまける。
しかし、ひとしきり叫んで感情の昂ぶりが治まってくると、今度は激しい自己嫌悪が心を占めた。
自分にだって分かっている。今、自分は不安や悲しみを、ごまかしているだけにすぎないのだと。こんな事を言っても、仕方が無いことだって──。
『楓』は息を吐いて一時的に跳ね上がっていた呼吸を整えると、僅かに俯いて自嘲気味に笑った。
右腕を下ろしながら、『楓』は半ば自分に言い聞かせるように呟いた。そして、しばらく黙り込んでからようやっと顔を上げる。しかし、
──その表情には、悲しさや弱々しさしか無かった。それは彼らしくない──否、彼がずっと自分を偽り、抑えてきたものだったのだろう。
楓はもう一人の自分を恐れていた。自分が「自分」でなくなるのではないかという不安ゆえに。
そして『楓』は自分を偽っていた。そうしていなければ自分は、己の存在意義が何なのかを──不安をずっと抱いていなければならない。
それは『楓』にとって致命的な事だった。何故なら、楓と違い、その不安を消してくれるものは何一つ無いのだから。
『楓』の言葉を黙して聞いていた青龍は、口を開く事無く「声」を発した。だか、いかにも不安そうに『楓』は表情を曇らせ、数回頭を振る。
今度は『楓』が黙る番だった。別に、青龍が今言った事を忘れていた訳ではない。
だが、それが重要な事だとは気付いていなかった。楓の存在が、あまりに近すぎたせいだろうか。ともかく、
拍子抜けしたような声で、『楓』はぼやいた。その表情から少しずつ、弱さが消え去っていく。
自分が何の為に創られたかなど、考える必要は無いのだ。本当に自分の存在意義を知っている人間など、そうそういない。問題は、今の自分がどう在るかなのだから。
そう言って、『楓』は再び小さく口の端を歪める。苦笑したのだ。